全国の忍者史蹟&観光スポット
御忍印お取扱い地域の関連史跡や観光スポットをご紹介します
横谷左近 ~群馬県東吾妻町
雁ケ沢城跡
群馬県吾妻郡東吾妻町松谷
雁ヶ沢城は、真田昌幸の家臣 横谷左近らの横谷氏が城主だった。横谷氏は、天正七年 (1579) 武田氏に下り、翌 年より真田昌幸に属して、横谷村を本領とした (『信 濃 をめぐる境目の山城と館上野編』より )。道の駅あがつま峡では、「忍」と刻まれた雁ケ沢御城印も発売されている。
潜龍院
群馬県吾妻郡東吾妻町郷原 923
戦国時代、真田昌幸は、衰退し始めた武田家当主・武 田勝頼のために館を建て迎え入れようとした。しかし勝 頼は謀反に遭い、館へ入る事はなく没し、昌幸は館を修 験の院 潜龍院とした。
岩櫃真田忍者ミュージアム
群馬県吾妻郡東吾妻町原町 624-4
JR 群馬原町駅から徒歩 1 分の忍者博物館。館内には、約 200 点以上の忍具が展示されている。忍具は、故 山岸 賢司氏が 50 年以上をかけて全国から集められた。鎖鎌や 棒手裏剣、目潰し器など数々の展示品は貴重な物ばかり !!
住所/群馬県吾妻郡東吾妻町原町 624-4
営業時間/ 10:00~16:00
休館日/水曜日
電話番号/ 080-6708-5431
服部康成 ~青森県弘前市・青森市
弘前忍者屋敷
青森県弘前市森町12
弘前城の南西に位置する青森県弘前市森町。ここに弘前忍者が使っていたであろう屋敷が青森大学 清川繁人教授によって発見された。
その地は、かつて明治二年(1869)に棟方嘉吉(むなかたよしきち)、文化六年(1809)には杉山伊太郎(すぎやまいたろう)、宝暦五年(1755)には、白川孫十郎(しらかわまごじゅうろう)という人物が住んでいた事が清川教授の調査で判明。清川教授の調べによると忍者集団「早道之者」が、江戸時代に土地を受け継いでいた。
屋敷建物は、江戸時代後期の建造物。家内部の屋根は茅葺き屋根、侵入者を知らせる床や床の間裏に隠しスペースなどは現在も見られ、一般公開されている。
弘前城
青森県弘前市下白銀町1
弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、慶長十六年(1611)に5重の天守が完成。服部長門守康成は、ここ弘前城で二代藩主・津軽信枚、三代藩主・津軽信義に仕えた。寛永四年(1627)、 落雷により天守が
炎上し、以降、天守のない時代が続いた。現在の天守は文化七年(1810)、蝦夷地警衛の功が認められ建築が許可されたもので、現存12天守の1つに数えられる。
長勝寺
青森県弘前市西茂森1丁目23-8
弘前城の南西にある禅林街は、弘前城の南西(風水では裏鬼門の方角)の砦として禅寺33ヶ寺が約600メートルの道沿いに集められた全国でも珍しい街並みである。禅林街の最も奥に建立された津軽家の菩提寺が長勝寺で、5棟の霊屋がある。入り口にある山門は寛永六年
(1629年)に、津軽信枚の命で服部康成が作事奉行となり建立したものである。
弘前ねぷたまつり
津軽に伝わる古文書には、文禄2年(1593)に京都で行われていたお盆行事に、津軽為信の命で服部長門守康成が作った大灯籠を披露し、それ以降、津軽でも行なわれたと書かれている。一方、康成は甲賀の忍びであり修験者でもあったため、京都の寺院行事に造詣が深かった。江戸時代に入って、康成は津軽における宗教行事(寺院の落成や疫病退散、雨乞いなどの祈祷)で京都仕込みの灯籠流しを行ない、これが弘前ねぷたまつりの原型になったとの説もある。当初、角灯籠だったねぷたは江戸時代後期になって扇形に変化し、多くは三国志や水滸伝などの古典から引用された題材が和紙に描かれる。
青森ねぶた祭
弘前から伝わった青森のねぶたは江戸時代後期になって巨大化し、人形ねぶたへ変化した。ハネトと呼ばれる踊り子が「ラッセラー」の掛け声で自由参加できるのが特徴。戦後企業スポンサーが付くことで豪華さが極まり、日本を代表する火祭りに成長した。
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