活躍時期:天文年間(1532~1555)~天正年間初期(1573~)
『一宮頭役次第』(木津家所蔵文書)に天文十三年(1544)十二月、「したてハ喰代(ほおじろ)もゝ地(百地)殿、」と一宮神社の祭礼を行なっている者の中に、百地の名前が記されている。
戦国時代、百地氏は北伊賀地域の有力な土豪だった。現在の三重県伊賀市喰代には、百地氏城跡が史跡として残る。丘陵の尾根部分を城にしており、長さ250m幅が最も広がる所は60mと、伊賀市内に残る城跡の中でも有数の規模となっている。土塁上が広く造られ、かつては「見張り台」の役目をなしていたと考えられる箇所もある。『伊乱記』(菊岡如幻きくおかにょげん著・延宝七年(1679))には、鬼瘤越の軍将として、柘植三郎左衛門、副将は日置大膳亮、九月十六日未明に、松島を発して一千五百余騎の軍勢を率いて、勢州榊原、満野邊の兵士をかりたて、案内者として、明けて十七日の未刻に、大峠、布引峯鬼瘤越等の険しき道をしのぎ、馬野口に発向す、此の所 伊賀伊勢両国の境で、極めて険しい山にて、雲をつんざく樹木立ち並び、立秋より衣がえの頃までは、往来の通路とおり難し、伊勢勢はこの険難をしのぎ、峰より伊賀を直下に見下ろして押し寄せたり、この攻め口にむかへる伊賀勢には、馬野村に馬野氏、坂下村に福持氏、喰代村に百地丹波、百々某、田中氏(中略)各人、器具を引きしめ、得道具を所持して馳せ向ふ、彼等の従類郎徒にはない鎌、竹槍等を一様に取り持たせ、村勢雑兵をかり立て、数千騎を従へ、勇士らは馬野口に競い来たり、と『伊乱記』には、天正四年(1576)の「第一次天正伊賀の乱」のことが記されている。百地丹波らは、伊勢から伊賀へ侵攻してきた織田信雄軍へ、各人が得意とする武器(鎌や竹槍)を持って、戦うために伊賀の馬野口へ集まった様子が書かれている。その二年後の「第二次天正伊賀の乱」後、百地丹波は柏原城籠城戦後に行方不明となっている。百地丹波は、史実があまり残らない謎の忍びともいえる。
戦国時代、守護の力が弱かった伊賀において有力大名はおらず、「伊賀惣国一揆」という名の自治組織が存在した。こうした集団で、百地丹波は有力な頭(かしら)の一人だったと考えられている。当時の史料『伊賀惣国一揆掟書』には、自分達で作ったルールが書かれており、掟書に基づいて治安維持をはかり、敵対勢力にも対抗していた。
名称/百地丹波2-不動心- 御忍印
価格/300円(税込)
販売開始日/2023年12月1日
購入可能場所
棚田の宿ささゆり庵
(たなだのやど ささゆりあん)
住所:奈良県宇陀市室生深野656
電話番号:0745-88-9402