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活躍時期:江戸時代初期
田原安右衛門は、田原安右衛門良重といい、家系図によると正徳元年(1711)六月十五日に71歳で亡くなっている。『蓮池藩日誌略』によると、寛文七年(1667)、嶋原騒擾(そうじょう) が起こり、蓮池藩主・鍋島直澄は田原安右衛門を細作として島原藩へ潜入調査をさせている記述が残る。そこには「細作トナシ嶋原ニ遣リ」とあり、細作(さいさく)は、忍びを意味する。蓮池藩は、隣国の島原藩である藩主・高力隆長が悪政によって幕府から改易となり、その動静を探るため、島原藩領内へ密かに侵入させたのだった。田原安右衛門は平時、塩田津(佐賀県嬉野氏にあった川湊)で蓮池藩の役人として働き、事が起こると実は忍びの密命を受けていた。塩田津は、近くに長崎街道が通り、有明海が満潮時は(そりゅう)によって多くの船が行き来し栄えていた。彫りや加工が施しやすい塩田石が地元で取れ、特産品として人気があった。蓮池藩の財政収入源としての塩田津は重要な商業地域で、そこを仕切る田原安右衛門は、けして身分の低い武士でなかったことが窺い知れる。また、安右衛門は鉄砲の名手でもあり『蓮池藩日誌略』には、安右衛門を「才学有り」とも評しており、優秀な人物だったことを伝えている。光桂寺(佐賀県嬉野市)に残る木像「僧形座像」裏には、正徳元年に良重の息子・良眞が寄進したことが記されている。また、木像は田原安右衛門の肖像とも伝えられている。
デザインについて:
佐賀城櫓門を背景に、蓮池藩士だった役人姿と忍びだった姿をイメージして描かれています。 狙撃しようとする忍び姿は「鉄砲の名手」だったことによるものです。
頒布日/2022年3月5日
頒布/うれしの温泉忍者フェスタ (佐賀県嬉野市)
絵/一本松。